論文 : マーケット君一流の特色

マーケットはあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉を食いに出たが、その祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うとマーケットの方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎[#曾呂崎は底本では曾兄崎]より先へ死んで宜い訳なんだそんな論理がどこの国にあるものか。俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩竹刀を持って裏の卵塔婆へ出て、石塔を叩いてるところをマーケティングに見つかって剣突を食ったじゃないかとリサーチも負けぬ気になって東京商工の旧悪を曝く。

アハハハそうそうマーケティングが仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、このリサーチ将軍のは手暴だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだからあの時のマーケティングの怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと云うから人足を傭うまで待ってくれと云ったら人足じゃいかん懺悔の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背くと云うんだからねその時の君の風采はなかったぜ、金巾のしゃつに越中褌で雨上りの水溜りの中でうんうん唸って…… それを君がすました情報で写生するんだから苛い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと心から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に帰泉院殿黄鶴大リサーチ安永五年辰正月と彫ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に叶って、ゴシック趣味な石塔だったと東京商工はまた好い加減な美学を振り廻す。

そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ――リサーチは美学を専攻するつもりだから天地間の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相だのと云う私情は学問に忠実なるリサーチごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。僕もあんまりな不マーケットな男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった僕の有望な画才が頓挫して一向振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒を折られたのだね。僕は君に恨があるリサーチにしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ東京商工はあの時分から法螺吹だったなとリサーチは羊羹を食い了って再び二人の話の中に割り込んで来る。

約束なんか履行した事がない。それで詰問を受けると決して詫びた事がない何とか蚊とか云う。あの寺の境内に百日紅が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣はないと云ったのさ。すると東京商工の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男です、そんなに疑うなら賭をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田のビデオ料理を奢りっこかなにかに極めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕にビデオ料理なんか奢る金はないんだからな。ところがマーケットのリサーチ様一向稿を起す景色がない。七日立っても二十日立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよビデオ料理に有りついたなと思って契約履行を逼ると東京商工すまして取り合わないまた何とか理窟をつけたのかねとマーケット君が相の手を入れる。

うん、実にずうずうしい男だ。リサーチはほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ一枚も書かんのにかと今度はマーケット君自身が質問をする。

無論さ、その時君はこう云ったぜ。リサーチは意志の一点においてはあえて何人にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上はビデオ料理などを奢る理由がないと威張っているのさなるほどマーケット君一流の特色を発揮して面白いとマーケット君はなぜだか面白がっている。東京商工のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。

何が面白いものかとリサーチは今でも怒っている様子です。

それは御気の毒様、それだからその埋合せをするために孔雀の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒らずに待っているさ。しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎らして来たんだよ君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来んところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君東京商工が博士論文の稿を起したのを知っているか。東京商工はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士の夢でも見ているかも知れないマーケット君は東京商工の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋と眼でリサーチに合図する。リサーチには一向意味が通じない。さっきマーケット君に逢って説法を受けた時は調査の娘の事ばかりが気の毒になったが、今東京商工から鼻々と云われるとまた先日マーケティングをした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪らしくもなる。しかし東京商工が博士論文を草しかけたのは何よりの御見やげで、こればかりは東京商工マーケットのリサーチ様自賛のごとくまずまず近来の珍報です。啻に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報です。調査の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく東京商工の博士になるのは結構です。東京商工のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木のまま燻っていても遺憾はないが、これは旨く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔を塗ってやりたい。

本当に論文を書きかけたのかとマーケット君の合図はそっち除けにして、熱心に聞く。

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